青春シンコペーション


第7章 すれ違う心(2)


当日。彩香は鏡の前に立った自分に話し掛けた。
「これでいいのね? 本当に……」
淡い水色のドレスに白いレースをあしらったケープは羽のようにふわりと肩に収まっている。ベルトは真珠。髪飾りも、彼女のお気に入りの蝶と羽のモチーフである。
(もう戻れないのよ)
足元にさっと風が過る。
一瞬、鏡の向こうから井倉の声が聞こえたような気がした。

――彩香さん

彼女はドレッサーのカバーを勢いよく下ろすとその場を離れた。最後に観た彼は彼女を追って必死に走っていた。しかし、彼は彩香がいないところでは、後輩の栗田と親しそうに会話していた。腕を組んだり、笑ったりして……。
(知らなかった。あの二人が付き合っていたなんて……)

彼女は白いビーズのポシェットに予備のハンカチを入れた。それは薄いレースの物だったが、被せの蓋を閉めるとポシェットは少し窮屈そうに見えた。
膨らんだそれを見て、彩香が呟く。
「予備なんて要らない」
そうして彼女は一度入れたハンカチを出すとドレッサーに置いた。
(そうよ。予備なんて要らない。醜くなるなんていやだもの。だから、これでよかったのよ)

その時、ノックの音が響いた。
「お嬢様、お支度は整いましたか?」
家政婦長の佐々木が呼びに来て、彼女は父と共に迎えの車に乗車した。


ホテルに着くと、VIPのみが通ることを許される専用通路から8階のフレンチレストランに案内された。離れた場所に数組の客はいたものの、彼らは品のよいカーテンで仕切られた空間に通された。
程良い照明のシャンデリア。特別に設えられた大理石のテーブルに置かれたキャンドル。そして、豪華な蘭が目を引いた。店内にはピアノの生演奏が響いている。
(悪くはないわ)
彩香は思った。そう。悪くない。調度品のセンスや料理の味、そしてピアノの選曲。どれも一流の店に相応しい配慮がなされている。

(悪くはない)
目の前にいる品のいい中年紳士と世話役。そして、少し気取った態度の青年、浮屋信次にしても……。
「ところで、彩香さんは音楽大学で学ばれているんですってね」
それまで黙って料理を口に運んでいた信次が訊いた。
「ええ。でも先日、退学届を提出しましたの」
彩香が言った。

「ほう。僕と婚約するために?」
「……!」
絶句する彼女を見て、浮屋は笑いながら言った。
「ははは。冗談ですよ。でも、そうだったらうれしいなと思ったんです。貴女があまりにも美しいので……」
「それはどうも……」
彩香は何故か家に置いて来たハンカチのことを思い出した。それは以前、井倉がくれた物だった。

――安物ですけど、僕にはこれくらいの物しか買えなくて……

彼が何かのお詫びにと言ってくれたのだ。それが何のためのお詫びだったのかはもう忘れた。が、そのハンカチに施された白い刺繍は彼女の好きな花の模様だった。
(……どうして今、井倉のことなんか思い出すの? 関係ないのに……)
ただ、今はそのハンカチを家に置いて来たことだけを後悔した。

「まあ、僕には音楽のことなんかよくわかりませんけど……。どっちにしてもくだらないですよ。あんなの所詮は遊びだし……。それより僕のために花嫁修業をしてくれた方がいい。と言っても特にすることなんかないんですけどね。ほら、家事とかみんな家政婦がやってくれちゃいますからね。貴女はただ、身体一つで僕のところへ来てくれればいいんですよ。楽ちんでしょ?」
そう軽口を叩く息子を父親が諌める。
「よさないか、信次、彩香さんに対して失礼だろう」
「だって、彼女、僕のお嫁さんになるって決まってるんだからいいじゃないですか。君、幸せになりますよ。何しろ、僕のうちには使い切れないほどの財産があるし、何といっても伯父さんは我が日本を代表する内閣総理大臣なんですからね。怖いものなしって感じかなあ」
彩香は途中でフォークを置いた。

「信次」
父親が窘める。が、彼はナフキンをくしゃくしゃにして自分の口とナイフを拭い、ぱんぱんと大きな音を立てて手を叩くとギャルソンを呼んだ。
「このトリュフ、すごく美味しい。お代わりある? それにワインも」
横柄な態度で命じる。
「畏まりました。ただいまお持ち致します。ワインはどのような物になさいますか?」
「一番高い奴を頼むよ。何しろ今日は僕にとって特別な日なんだからさ」
「承知致しました。では本日特性のスペシャルワインをお持ち致します」
「スペシャルだってさ。いいねえ。彩香さんもワインはいける口なんでしょう? 食事が済んだら、二人だけでもっと静かな場所へ行きましょう」
彼はカチャリと音をさせてフォークを突き刺すと大口を開けて肉の塊を頬張った。

「お父様、わたし……!」
彩香が我慢し切れず席を立とうとしたその時、流れていた曲が変わった。静かだが悲しい。重く研ぎ澄まされたメロディー。この場には最も相応しくない曲だった。
(葬送……)
彩香は凍りついた。カーテンで仕切られた向こうでもざわめきが起きている。

「何だ? この曲は……」
「葬送行進曲とは不吉な……!」
「いったいどういうつもりなんだ! 責任者を出せ!」
「しかし……」
そのあまりに洗練された美しさに皆が口を噤んだ。
「不吉な曲? だが、これはあまりに美しい……。まるで澄み切った悲しみの結晶を抱いて深い海の底に沈んで行くような……。神の審判が下されるのを待つ心境を現すような透き通った調べだ」
たまたまヨーロッパ音楽ツアーの記事の打ち合わせのため、このレストランを訪れていた藤倉は動揺を隠せなかった。

(これほど完璧なショパンを演奏できる人物は二人。しかし、まさかこんなところで弾いている筈がない。だとしたら、いったい演奏者は誰なんだ?)
その席はピアノから離れていた。それでも何とかその顔を覗くことができた。金髪碧眼の美しい容姿をしたその彼を……。
「フリードリッヒ・バウメン……」
背筋に驚愕という快感が走った。
(奇跡だ! こんなところで彼の演奏を聴くことができるなんて……)

他の客達にも動揺が広がった。
「あれは……。あのショパンコンクール優勝のフリードリッヒ・バウメンでは……?」
「まさか、そんな大物がこんなレストランで弾くなんて……」
「しかし、あれはまさしく……」
客達はしんとなって、彼の演奏に聞き入った。たとえそれが葬送行進曲であろうと、美しい曲には違いない。むしろ、この曲に付いていた先入観としての陰のイメージが払拭され、かえって神聖に聞こえた。

(これはまるでバウメン先生の演奏のようだわ。透明で揺らぎのない完璧な音……)
その席からピアノは見えなかった。が、彩香はそれを確信した。その曲のあまりの素晴らしさに、思わず浮屋に対する怒りでさえ、忘れるほどだった。が、彼女が曲に感動している間も、信次はお代わりした料理を食べ続けた。
「ワインはどうしたのかな?」
そう言って彼がもう一度手を叩こうとした時、ふわりとカーテンがめくれ、ギャルソンがワインを持ってやって来た。

「何してたんだ、遅いよ、君!」
そう怒鳴りつける浮屋に対して、ギャルソンが深々と頭を下げる。
「それは、大変申し訳ありませんでした、お客様」
しかし、その言い方には若干の毒が混じっていた。
「何だよ、その言い方は! 生意気だぞ! こっちはお客様なんだからな!」
「では、お詫びのしるしにこれを……」
グラスに注いだそれを浮屋の頭から派手に浴びせる。
「き、君、いったい何を……!」
皆が一斉に立ち上がる。彩香も立つとその顔を見た。

「ハンス先生!」
彼は少しも動じず、さっとテーブルクロスを外すと浮屋に向かって放り投げた。料理や食器が散乱し、浮屋の父や世話役の仲人が怒鳴り散らす。
「貴様、いったい何者だ? こんなことをしてただじゃ済まんぞ!」
ピアノは一層激しく悲しみを訴えるように響いた。
「何をやってるんだ! 信次! そんなところに潜ってないで早く出なさい」
しかし、彼はハンスに被せられたテーブルクロスから出られずにもごもごと言った。
「僕のトリュフちゃんが……」
目の前のそれに手を伸ばす。ハンスは思い切りその手を踏み付けた。
「ぎゃっ!」
浮屋が悲鳴を上げる。
「痛いよ! パパァ、こいつが僕の手を踏んづけた!」
「くそっ! 警察だ! 警察を呼んでこいつを捕まえろ!」
浮屋の父が叫ぶ。

そこへ、新たな人間が二人入って来た。そして、身分証明書を見せて言った。
「私はCIAの特任捜査官のジョン・マグナムです」
「同じく、リンダ・コリンズです」
彼女は皆を監視するように入り口に立ち、ジョンは浮屋親子の元に近づいた。
「浮屋信次さんですね? 少々お話を伺いたいので、我々と同行願えますか?」
布に絡まったまま座り込んでいる彼を見降ろして言う。
「何だって? 息子が何をしたと言うんだ?」
浮屋の父が怒りに肩を震わせて訊いた。
「麻薬取引法違反容疑です」
ジョンが淡々と答える。

「何だって? おまえ、そんなことをしてたのか?」
父は動揺しながらも息子に詰め寄る。
「やってないよ! ちょっとパーティーではしゃいじゃっただけじゃないか」
散らばった料理にまみれて駄々っ子のように叫ぶ。
「これじゃあ、とても車に乗せられないわね」
背後に控えていた女性捜査官が呆れる。
「これでくるんじゃえば?」
仕切りに使われていたカーテンを外して、ハンスが渡す。
「いいけど……。お店の人に叱られない?」
「どうせ直に滅茶苦茶になるさ」
ハンスが言った。

「OK! そんじゃ、そいつはわたしが引き受けるから、残りの二人の同行頼むわよ、ジョン」
そう言うと彼女は浮屋の身体にカーテンを被せるとそのまま縛り上げてひょいと持ち上げた。
「む、息子をどうするつもりだ?」
父親が叫ぶ。
「別に。お話を伺うにしても、ここじゃ賑やか過ぎるので、場所を移したいだけです。それにソース塗れの体じゃ車に乗せられないでしょ?」
リンダが言った。
「だからと言って、そんな……」
「ご心配なく。貴方にも同行していただきます。浮屋宗一さん。それに、有住幸三郎さん、お二人にも少々確認したいことがありますので一緒に来てもらいます」
ジョンが言った。

「お父様」
彩香が心配そうにその顔を覗く。
「大丈夫だ。おまえは心配しなくていい」
「でも……」
払拭できない不安がその場を支配している。
「私にも容疑が掛かっているのですか?」
幸三郎は真っ直ぐにジョンの目を見て言った。
「収賄容疑です」
「わかりました。あとで弁護士に連絡を取らせてもらっても構わないのでしょうね?」
「どうぞ」
そう言うとジョンは二人の男を同行し、リンダは、布にくるんだ男を抱えると、その場を離れた。

「先生……」
彩香が泣きそうな顔でハンスを見た。その時、銃声が響いた。
同時に非常ベルが鳴り出す。中にいた客達の間にどよめきが広がる。もうピアノの音も聞こえなくなっていた。
「皆さん、落ち着いてください! 今、係の者が避難誘導を行います」
レストランの中は大混乱に陥った。
「いったい何が起きたんだ?」
「今の銃声は何だ?」
「火事か? それにしては……」
人々が叫ぶ。

「テロだ! このレストランに爆弾が仕掛けられている!」
誰かが叫んだ。悲鳴と、再び銃声が聞こえた。
「何処だ?」
「犯人は! 爆弾は何処に仕掛けられているんだ?」
間もなく、店の従業員と警備員、それに国際警察と名乗る者達が駆け付け、客達を誘導し始めた。
「ハンス先生」
「大丈夫。君は井倉君に付いて行ってください」
「井倉?」
振り向くと彼が硬直姿勢で立っていた。緊張と恐怖で震えていたのだ。

「さあ、早く! ここは危険です。彼女を連れて下へ逃げてください!」
ハンスに言われても、彼はそこから動けずに固まっていた。
「でも、先生は?」
彩香の問いに彼は微笑して言った。
「僕は一つ仕事をしてから行きますので」
そう言うとハンスは井倉の背中を押した。
「さあ! 行って!」
「ハンス先生……僕……」
彼にはまだ目の前で起きていることが信じられなかった。非常ベルの音も、人々の悲鳴や錯綜する靴音も、とても現実のこととは思えない。店の奥で小さな爆発が起き、シャンデリアの一つが落下した。

「井倉!」
彩香がバシッと彼の頬を平手で打った。
「彩香さん……」
「馬鹿! 何を愚図愚図しているの? 逃げなきゃ……!」
切迫する彼女の顔を見て、彼ははっとした。
「そうだ。逃げなきゃ……」
井倉はさっと彼女の手首を掴んだ。それから、二人で通路を駆け抜け、エレベーターホールに出た。何人かの人々がまだそこにいた。が、遠くで警備員が叫んでいる。
「エレベーターは乗らないでください! 電源が途絶える心配があります。危険ですのでエレベーターには乗らないで! 奥の階段を使ってください!」

「行こう! 階段だ」
井倉は彩香の手を強く握った。
(この手は絶対に放さない。今度こそ守るんだ。僕の……)
彼らは狭い階段を駆け降りた。


外に出ると、野次馬やマスコミの者達がビルを取り巻いていた。
「おい、あれは有住コンツェルンのお嬢様じゃないか?」
「狙われたのは有住社長か? それとも浮屋の……」
「どっちでも構わないさ。有住さーん、ちょっとインタビューさせてください!」
「中はいったいどうなっているんですか?」
マイクやカメラを持った記者達がこちらに向かって駆けて来る。
(守る!)
井倉が身を翻して、彼女の手を引いた時、
「井倉君! こっちだ」
隣のビルの非常扉を開けて飴井が呼んだ。二人は急いでその扉の向こうに飛び込んだ。それから、一気にフロアを駆け抜けて、反対側の道路に出ると、そこに停めてあった飴井の車に乗った。追って来たマスコミの連中は地団太を踏んだが間に合わない。車は高速道路に出ると一気に加速した。


都心を離れ、郊外まで来ると、ようやく早鐘のように打っていた井倉の鼓動も落ち着いて来た。
その間、彩香もずっと黙ったままでいた。飴井は運転に集中し、周囲にも気を配っていた。が、今のところ追って来る者はいない。
「取り合えず、ハンスの家に行くよ」
飴井が言った。
「はい」
井倉は反射的にそう返事をした。
「でも、ハンス先生は?」
彩香が訊いた。
「事後処理が済んだら帰って来るさ」
飴井が答える。

「事後処理?」
井倉が訊いた。一度にいろんなことが有り過ぎて頭が混乱していた。事前に打ち合わせはしていた。しかし、これほど大掛かりな展開になるとは思っていなかったのだ。それに、新たな疑問が浮上した。ハンスはいったい何者なのだ。そして、彼の友人達も同様だ。井倉にはわからないことだらけだった。
「あの、お父様は……」
彩香が不安そうに訊いた。
「大丈夫。すぐに釈放されると思いますよ」
「それってはじめから……。もしかしたらはじめから仕組まれていたことなんですか?」
井倉が訊いた。バックミラーに映った彼は青ざめていたが、瞳には強い光が反射している。

「……」
数秒の沈黙の後、飴井が重い口を開いた。
「そうだと言ったら?」
「何で……!」
拳が震えた。
「国際警察だと名乗っていた人達の中にハンス先生のお兄さんもいました。離れてたけど、間違いありません。それに、ハンス先生もそちらに合流したみたいに見えた。そんなこと有り得ないと思ったけど、もしそうならすべてが納得が行くように思えるんです。教えてください。ハンス先生はいったい……」
「それは、直接ハンスに訊いてみるんだな」
「でも……。考えられない。ピアニストとして申し分のない腕を持っていながら、どうしてそんな危険な仕事をしているのか。ピアニストとしてなら、平和で安全に暮らしていけるのに……」

「奴には奴の事情があるんだろうさ」
「けど……悲し過ぎます!」
窓の向こうに見えるのは延々と続く防護壁。

――僕はもうピアニストとしてはやれない。手術の後遺症で、長い時間弾くことができないんです

(ハンス先生……)
井倉は微かに頬を震わせ、唇を噛んだ。
「だが、奴はそうは思っていないかもしれない」
飴井が言った。
「何故ですか?」
「言っただろ? 人にはいろんな事情があるって……」
その時、すぐ脇に並んだバイクの若者が飴井に挨拶した。あとに続く何台かのバイクに乗った者達もそれに倣った。
「知り合いなんですか?」
意外そうな顔をして井倉が訊いた。
「まあな。探偵なんて仕事をしているといろんな奴と知り合うこともあるのさ」

「飴井さんは、本当にただの探偵なんですか?」
「一応ね」
「一応か……」
井倉はため息をついて視線を落とした。
(そういえば、いつ放しちゃったんだろう?)
隣に座ったままじっと窓の外を見つめている彩香を見て思った。
(ずっと放すまいと思っていたのに……。どうして放しちゃったんだろ? 彩香さんの手を……)
車はいつの間にか高速を降り、静かな海沿いの道路を走っていた。